フリッツ・ハンセンの製品は、時の試練に耐え、生涯にわたって高いクオリティが楽しめるようデザインされています。
シンプルな北欧デザインに対するフリッツ・ハンセンの信念は、世界屈指のコンテンポラリーデザイナーたちと共に生み出した卓越したデザインに命を与え続けています。
クリスチャン・E・ハンセンが25歳という若さでフリッツ・ハンセン社のトップに就任した当時、はやくも同社は質の高い家具をつくる信頼できるメーカーとしての地位を確立していました。クリスチャンは、建具および家具職人兼建築家としての経験を活かし、仲間の建築家たちとともに会社の名声を高めていきます。クリスチャンの判断のおかげでフリッツ・ハンセン社は、ますます有名な存在となり、世界的にも知られるようになりました。デザイナーや建築家たちとのコラボレーションは、今日のフリッツ・ハンセン社にも引き継がれています。
クリスチャンが手がけた最初のコラボレーションは、1905年にさかのぼります。コラボレーション相手は、デンマーク出身の著名な建築家、マーティン・ニーロップでした。ニーロップは、コペンハーゲン市庁舎用の家具をプロデュースするというプロジェクトを携えてフリッツ・ハンセン社にアプローチしました。ニーロップは、市庁舎の外観と内装の両方を手がけていたのです。この成功を機に、フリッツ・ハンセン社はトルヴァルト・ヨルゲンセンやカイ・ゴットロブをはじめ、当時のもっとも有名なデンマーク人建築家たちともタッグを組みました。さらには、クリスチャンボー城にある国会議事堂、フレゼレクスベアの裁判所、最高裁判所といった施設向けの家具もプロデュースしました。
1910年代、スチームを使った曲木技法を使うデンマークの家具メーカーはフリッツ・ハンセン社だけでした。この製造技術が与えたインパクトとクリスチャンの探究心の重要性は計り知れません。クリスチャンの先見性あふれるアプローチは、当時の製造にもっとも重要な変化をもたらしました。スチーム曲げ木と成形合板はフリッツ・ハンセン社を定義づける要素となり、もっとも重要なコラボレーションに欠かせないものとなりました。
クリスチャンは、フリッツ・ハンセン社の家具製造の進化において重要な役割を果たしました。父が遺したクラフツマンシップの伝統の工業的ポテンシャルを探求した彼は、重要な近代建築から事業を委託されるようになりました。しかし、もっとも重要なのは、新しい方法と素材を使って会社を常に前進させたことです。クリスチャンのアプローチは、その後、豊かな実りをもたらしました。
初代フリッツ・ハンセンは建具および家具職人として修行を積 みましたが、何よりもまず、先見性あふれる人物でした。
1872年、フリッツ・ハンセンは建具および家具職人としての訓 練を終え、一人前の職人として独立しました。当時25歳だった 彼には、大きな夢がありました。貿易商としての許可証を手に 入れた彼は、デンマークのナクスコウという小さな町から首都 コペンハーゲンに移住し、慎ましやかな工房を立ち上げます。 ハンセンは工芸と真摯に向き合う人物で、彼の卓越したクラフ ツマンシップと品質は瞬く間に世間から高く評価されました。 卓越したクラフツマンシップと品質は、今日も私たちを支える レガシーであり続けています。
ハンセンの評価は高まり、事業も成長しました。1887年には、 最初の工房は手狭になってしまいました。そこでハンセンは、 コペンハーゲンのクリスチャンハウン地区に建物を購入しま す。作業空間が広がったことにより、ハンセンは才能をさらに 開花させていきました。
丁寧でありながらもスピーディーに仕事をこなす人物として知 られていたハンセンは、創造力に富む人物でもありました。た とえば、女性がスカートを膨らませるために履いていたクリノ リンからヒントを得て、スリムなスチールフレームでヴィクト リア様式の椅子を再解釈しました。さらにはミラーフレームを つくったり、階段のバラスター(手すり子)、椅子やソファの 脚をつくるための特殊な木工ろくろ技術を取り入れたりしまし た。ハンセンの家具はますます人気を博し、デンマーク国外か らも顧客が訪れるようになりました。
1898年には、フリッツ・ハンセン社は50名の社員を抱える企 業に成長していました。フリッツ・ハンセンの息子にあたるク リスチャン・E・ハンセンは、製造拠点の一部をコペンハーゲン 郊外に移転しました。彼は、アレロッドという小さな町の森林 と鉄道に近い場所に広大な土地を購入します。父フリッツ・ハ ンセンが描いていた目標には、自社の製材所を立ち上げること も含まれており、この点を踏まえると、アレロッドの立地は理 想的でした。フリッツ・ハンセン社は、現在もアレロッドを拠 点としています。
事業が成長しつづける一方、ハンセンの健康状態は悪化してい きました。19世紀が終わろうとする直前、彼は会社を当時25歳 だった息子のクリスチャンに引き渡します。クリスチャンは、 父と同じ年齢でフリッツ・ハンセン社のトップとなりました。
1932年にクリスチャン・E・ハンセンの息子にあたるポールとソーレン・ハンセンがフリッツ・ハンセン社の共同ディレクターに就任しました。ポールは家具職人として修行を積み、ソーレンは建具師でした。両者は、バウハウスからインスパイアされた機能性に対するこだわりとともにはやくもフリッツ・ハンセン社に影響を与えていました。彼らは、ヨーロッパ旅行中にバウハウスという工業的デザインの美学を目の当たりにしましたが、当時のデンマークではまだ珍しい存在でした。ソーレンが新製品開発に取り組む一方、ポールは生産管理に携わりました。ハンセン兄弟は、デンマークにおけるスチールを使ったチェア生産とデンマークデザインの機能性の発展に大きく貢献しました。
ハンセン兄弟は、著名なデンマーク人建築家と仕事をしながら、スチール家具をつくる技術をスチーム曲げの木の椅子に取り入れました。フレミングとモーエンス・ラッセンとタッグを組んだスチール家具は、ハンセン兄弟の代表作のひとつです。これらのデザインは、先見性あふれるバウハウス建築家、ミース・ファン・デル・ローエの影響を受けています。ラッセン兄弟の家具は、ファン・デル・ローエのそれと比べると機能性には劣りましたが、ラッセン兄弟はクールな印象のスチールと、バウハウス家具の多くに欠けていた温もりあふれるデンマークの美意識を結びつけました。ラッセン兄弟のデザインは、デンマークの人々から高い評価を得ることができました。
デンマークの建築家、フリッツ・シュレーゲルもフリッツ・ハンセン社のためにスチール家具のデザインを手がけています。コペンハーゲン近郊のオーフスの海水浴場、Den Permanenteで開催された展覧会では、スチールとビーチ材を使ったラウンジチェアを発表しました。展覧会の来場者には、デンマーク皇太子、首相、貿易大臣だけでなく、デンマークデザインおよび製造業界の主要人物などが含まれていました。シュレーゲルの木とスチールのデザインはメディアから「センセーション」と絶賛され、こうした技法をデンマークの家具製造に導入したとして、フリッツ・ハンセン社も評価されました。
1930年代にフリッツ・ハンセン社は、初めてアルネ・ヤコブセンとタッグを組みました。両者が手がけたプロジェクトには、デンマークのクランペンボーのベルビューとベラヴィスタプロジェクトも含まれます。ヤコブセンとの強力なパートナーシップを維持する一方、ハンセン兄弟は1940年代にハンス・J・ウェグナー、ボーエ・モーエンセン、オーレ・ヴァンシャー、ペーダー・モース、カイ・フィスカーといったデザイナーたちとも仕事をしました。
第二次世界大戦中、イギリス空軍の爆撃機「モスキート」のために成形合板を使う技術が開発されました。フリッツ・ハンセン社は、この技術に家具としての計り知れないポテンシャルを見出します。接着剤を使って薄くカットされた木材を重ねていく技術が家具製造に導入されはじめました。1950年代には、この技術を使って建築家のピーター・ヴィッツとオルラ・モルガード・ニールセンとともにAXシリーズをプロデュース。さらにはAXシリーズの廉価版を発表し、これがフリッツ・ハンセン社の輸出事業の成功のきっかけとなりました。成形合板を使ったAXシリーズの技術は、アルネ・ヤコブセンのアリンコチェアやセブンチェアといったアイコニックなデザインの誕生に重要な役割を果たしました。
1950年代にアルネ・ヤコブセンの家具が人気を博した結果、フリッツ・ハンセン社は前代未聞の成功を手に入れました。今日でも、ヤコブセンの作品は私たちのアイデンティティーの重要な要素であり続けています。先見性あふれるハンセン兄弟のパートナーシップとスチールや成形合板といった革新的な素材は、かつてないほど力強い足取りでフリッツ・ハンセン社が20世紀の後半を迎えることを可能にしました。
20世紀初頭、フリッツ・ハンセンの息子であり、先進的な考えの持ち主のクリスチャン・E・ハンセンは、スチーム曲げという新しい曲木技法を模索しはじめました。
スチーム曲げ木使って工業的につくられた家具は、1830年代からドイツ・チェコ(当時)のトーネット・ムンダス社から発売されていました。1912年には、同社の年間生産量は200万点を超えました。同社のラインアップには、1859年にデザインされて絶大な人気を博した「No.14ウィーンカフェチェア」も含まれていました。残念ながら、スチーム曲げ木はトーネット・ムンダス社にとって社外秘の技法でした。クリスチャンは、自らの力でこの技法を解明しようと決意します。
1915年、フリッツ・ハンセン社はスチーム曲げ木を使ったデンマーク初の椅子の生産に成功しました。この偉業を成し遂げたのは、フリッツ・ハンセン社だけでした。生産クオリティは非常に高く、トーネット・ムンダス社が、同社のデザインする製品を北欧市場向けに製造する独占権をフリッツ・ハンセン社に認めたほどでした。1930年代には、フリッツ・ハンセン社の技術はさらに洗練され、この分野における世界的なリーダーとしての地位を築きました。この技術力が、後に得意分野となる成形合板を使った家具の開発につながっていきます。
1930年代頃には、「DANチェア」という、ビーチ材をスチームで曲げてつくったデンマーク初の椅子が誕生しました。トーネット・ムンダス社の椅子からヒントを得ていることは一目瞭然ですが、クリーンな直線とより軽やかで機能的な表情が特徴的なDANチェアは、極めて北欧らしいデザインでした。
スチーム曲げは、豊かな歴史を誇る、経済的で環境に優しい生産方法です。木材をつなぎ合わせるのに接着剤を使用しないため、生産スピードもアップします。さらには、木材を精密にカットしたり、複雑なジョイント部分や貴重な木材でしかつくることができない形状が不要なことから、素材の無駄も最低限に抑えられます。
クリスチャンによるスチーム曲げ木の探究は、フリッツ・ハンセン社だけでなく、家具業界全体の流れを変えました。いまでもDANチェアは、家具製造とデンマークデザインにおける革新をつなぐ重要な存在であり続けています。